2017年6月17日土曜日

<重要信仰神学論> 真の罪の代贖とキリストⅡ(代贖の法的擬制)2017年6月17日水曜 ■韓国語礼拝<神の王国、恩恵の遺産(하나님 왕국 은혜의유산)>より

<重要信仰神学論>
真の罪の代贖とキリストⅡ(代贖の法的擬制

2017年6月17日水曜 ■韓国語礼拝神の王国、恩恵の遺産(하나님 왕국 은혜의유산)>より

罪は必ず罰を受ける犯罪であり審判する神こそが正義・善なる神であるという理解ができます。
では我々の罪と罰を代わりに償うとは?についての「真の罪の代贖とキリスト」の第Ⅱ編です。
この重要な神学を理解するため「真の罪の代贖とキリスト」の第Ⅰ編も是非お読み下さい。真の罪の代贖とキリストの王権王国

翻訳:Minion
テサロニケ人への第二の手紙
1:6すなわち、あなたがたを悩ます者には患難をもって報い、悩まされているあなたがたには、わたしたちと共に、休息をもって報いて下さるのが、神にとって正しいことですからである。
1:7それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。
1:8その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、
1:9そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。
1:10その日に、イエスは下ってこられ、聖徒たちの中であがめられ、すべて信じる者たちの間で驚嘆されるであろう―わたしたちのこのあかしは、あなたがたによって信じられているのである。
1:11このためにまた、わたしたちは、わたしたちの神があなたがたを召しにかなう者となし、善に対するあらゆる願いと信仰の働きとを力強く満たして下さるようにと、あなたがたのために絶えず祈っている。
1:12それは、わたしたちの神と主イエス・キリストとの恵みによって、わたしたちの主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためである。
1:31:57
アジュ、アジュ、
では、私達は先週たくさん勉強しましたが、・・・今日は随分時間が過ぎましたね。この内容はかなり、ちょっと難しいです。 難しいが、重要な内容です。 私たちは先週、私たちの罪を代贖するキリストについて勉強しましたね。
代贖するには、1番目は罪人と代贖するキリストは同じ存在物でなければなりません。動物は十分ではありません。 虫は十分ではありません。人間が罪人になって、人間、同じ存在物がその罰を代贖しなければなりません。 もちろんこれは神様が一番望まれる道ではありませんが、しかし、キリストを信じないで不信する、民の不信の為にこの道を行かれました。 お父様も蕩減復帰の道を歩まれながら、これを更に深く理解することが出来るのです。
それで一番目は同じ存在物。存在。

二番目は、代贖するキリストは自由選択として選択しなければなりません。 志願者。
覚えていますね? 先週、勉強しましたね。代贖物が何? 代贖されるために本人の意志だけで構成された同意!そうですね? 先週勉強しましたね。

三番目は、代贖したキリスト、代贖者は自分の生命に対する力がなければなりません。決定できる力。決定権。
赤ちゃんが寝ている時、自分に対する生命の決定権はないじゃないですか。 赤ちゃんには。 母親が保護しなければなりませんね。 ですから、代贖者は自分の生命に対する力がいなければなりません。 決定権。
四番目、代贖者は全人類が受けなければならない罰、罪の罰を100%受けることが出来る存在でなければなりません。
ですから人間だけでは十分ではありません。神様の代身者でなければなりません。神様の何ですか。 本体。本体です。分かりますね? ひとえに、すべての人間の罰を受けられる存在は実は人ではありません。人は自分の罪だけ受けられるから、代贖することができるから、自分の罪に対してのみ罰を受けることができます。しかし、全ての人の罪、罰を受けることのできる存在でなければなりません。ですから100%神様100%人間。 キリストは100%神様100%人間。 人間ですが神様の本体です。
五番目は、その代贖者、代贖物が罪があってはいけません。 罪なし。神様の判事、裁判所で無罪な人。 何の罪もない人。分かりますね?罪のない者。
ですから、お父様が罪(を持って)生まれた。韓氏オモニは異端賞賛です。どれだけ悪かわかりません。自分は何の罪もなく、原罪なく生まれて、お父様は原罪を(もって)生まれた。とんでもない。ですから代贖物は原罪とすべての罪があってはいけません。
そのような内容としてキリストは我々の代贖物になりましたね? キリスト教徒がイエス様を信じることで、信じることによってのみ霊的救援されることになります。 それも驚くべきことですね。 イエスの十字架の路程もそうしたとてつもない道をつくられました。 もちろん、神様が望まれた道ではありませんが、その内容によって霊的救援をもらう事が出来ました。
さあこれ何ですか? リーガル・フィクション(Legal fiction、法的擬制 ※擬制:ある特定の事実が認められる場合に本質的には性質の異なる他の法律効果と同一の法律効果を認めること:簡単に言えば「法的にみなすこと」)
多くの無神論者の人々がどうして他の人が自分の罪を代贖して、代わりに受けられるのか、話にならない。 話にならない。それはただ狂ったキリスト教徒だけが信じるのであって、話にもならない。 ロジックと合理的に考えてみたら、話にならない。このように言います。 無神論者たちがよく言います。そして家庭詐欺連合も同じでしょう。 多くの人が言います。どうしてイエス様が、2000年前に生きていたイエス様があなたの罪を贖う事が出来るの? 自分の代わりに罪を受ける事が出来るの? 話にならない。 こうです。 ねぇ、多くの人がこのように言います。
この人たちは、法がよくわかりません。 法。法律学、法律学ですか?法学?法学に'法的擬制'という内容があります。 '法的擬制'。それは公式的な内容です。 それは何ですか? 韓国の人々がその単語を見ても理解できませんね。これは公式的な名称です。 '法的擬制' それが何かといえば、判事が裁判官がある結論を出すために、現実にしていない内容を受けて結論を出します。
例えば、理解がちょっと難しいでしょ? 例えば、養子縁組。養子縁組したとき、法廷が法律的な擬制を書きます。 判事、判事が、 この養子縁組した人がサインをした次に、法的に擬制を書きます。 それが何か? この父母がサインした後は、その赤ちゃんと父母(の関係)ではありません。法的には。しかし、実体では、生物学的には、違います。生物学的には(自分たちの)赤ちゃんですね。そうですね?
しかし、この結論を出すために、養子縁組の内容、法的な結論を出すために、分かりやすく言えば、嘘を受けるのです。 認定するのです。 生物学的な親がこれからは生物学的な親ではないという、(これは)嘘ですね?嘘。本当ではありません。しかし、法がこれを使用して他の人が赤ちゃんを養子にすることを許可するのです。 法律的な他人、第三者になります。親が。 生物学的には親ですが、法的には見知らぬ人になります。分かりますか?法的に赤の他人になります。 理解できますか?
これは法的擬制です。 現実ではない内容を、現実として取り扱って、その次に結論が降るのです。 法廷で。 分かりますね? このことが、法に多いです。 多く、多く、多いです。 ですから私たちの罪は、不法の犯罪だということを理解できなければ、法学、この法に関する内容の中に属していることを知らなければ、理解できません。 どうしてイエス様は、愛する神様なのに、どうして私を審判しなければならないのか。 なぜ私に罰を与えないといけないのか理解できません。
1:41:40
ところで法学で、韓国でも米国でも毎日同じように判事達が常に書きます。何を? 法的擬制を。
さらに勉強しましょう。 例えば1774年にマスティン(Mastin)vsファブリカス(Fabrigas)の有名な事件があります。それが何かといえば、ファブリカス(Fabrigas)という人がメノルカ島(Minorca)、メノルカ島は地中海にある小さな島です。その当時、イギリスの殖民地でした。 その島が、メノルカという島がイギリスの植民地です。 ここメノルカ(Minorca)。そして、このパブリカス(Fabrigas)という人がメノルカ州知事を告訴しました。なぜ告訴したのか?
メノルカの総督がパブリカスという市民を不法侵入と不法監禁しました。 ですからパブリカスという市民がこのメノルカの総督マスティンを告訴しました。 告訴。 問題は何か? この人を告訴したいのですが、この人を告訴する前にメノルカの総督の許可を受けなければなりません。 でもこの人がメノルカ総督を告訴していますね。 ですから、こいつが許可をくれないのです。 理解できますか?それでどうしたのか. パブリカスはイギリスに行きました。 イギリスに行って、ロンドンに行って、イギリスの法廷でメノルカの総督を告訴しました。 分かりますね?植民地ですから。
この人はロンドンで告訴したということです。判事はロード・マンスフィールド(Lord Mansfield)でした。 ロード・マンスフィールドという人が判事でしたが、その判事はこの事件の結論を出すために、・・・ロンドンにいる判事です。 ロンドンにいる判事はこうしようとしました。 法的な擬制を使いました。 ある法的擬制。
メノルカ島は、ロンドンの一部分だ。ロンドンの一部分だとしました。法廷で。 理解できますか。 おかしいでしょ? 現実的には、科学的には、このメノルカ島はロンドンにはないですね。 擬制ですね。 擬制。 嘘じゃないですか。 これは。現実の内容ではないですね。 分かりますか? でもこの内容を解決するためにロード・マンスフィールドという判事がメノルカはロンドンの中にあると結論を出しました。 そして、パブリカスはその総督を告訴できるように作りました。 ロンドンで。
ですから法学と毎日起こる事件で、韓国も同じく米国も同じく、法的擬制を常に書きます。法廷で常に書きます。 法的擬制。ではこの話は、法的擬制を書いたのですが、現実的な結果と判決を下すことができますね。 法的擬制を書いたのですが、現実ではない擬制を書いたのですが、実体的な判決を下すことができるじゃないですか。 理解できますか?
ですから、イエス様とお父様は罪人ではないのですが、神様の法廷で罪人とみなします。 我々の罪を私たちの罪をイエス様に与えます。 代贖します。 しかし、イエスは本当は罪を作ってないじゃないですか。 ですからこれは法的擬制です。 ところで判決が何か? 代贖者は罪人として罰を与えた。 ですから判決が何か? 私たちは解放されました。 実体的な判決が出ます。 法的擬制があっても実体的な判決が出ます。 私たちは神様を分かるようになり、お父様をお父様の蕩減復帰路程と同じなのです。 これは。
お父様は全世界人類、個人、家庭、種族、民族、国家、…その罪を作っていないと言うのです。しかし、罪をすべて代贖しなければならないのです。 しなければならないのですよ。そうですね?しかし、お父様は実体的に本人が作ってないじゃないですか。 その罪を。それでもその罰を全て消化しなければならないのです。 そして実体的な結果は何か? 実体的な結果は、その罪から私たちが解放されました。 私たちの祖先も、解放されました。 その罪から。 ところで誰がその罰を支払ったのか? 救世主が支払いました。救世主が。分かりますか?これが?どうして法的な擬制と、このような法的擬制とこのことが可能なのか、実体的に可能なのか、理解できますか? 理解しましたか?
1:18:58
19世紀にも法的な擬制。貿易船に法的擬制をたくさん使いました。 法廷で、米国とイギリス。イギリスでも同じように。法的貿易をしながら不法貿易をしていました。例えば奴隷、人の不法貿易、麻薬の不法貿易など。ところで警察たちが捕まえたこの船の船長、船長が「あぁ、私は知りません。この船のオーナーを告訴して下さい。私をいくら告訴しても関係ありません。私はただの職員ですから。 この船の主人を告訴して下さい」(と言います)
しかし、その船の主人を告訴したが、その船のオーナーは「あぁ、私は知りません。 私はその人たちにこのような貿易(をしなさいと)話しませんでした」 このように言うのです。 「私は船を貸しただけで、賃貸しただけで、この人たちが何を貿易しているのか、私がどうして知っているのですか」... でしょ?
そして、どうなりましたか? この人たちが完全に問題となって、イギリスの法でどうしたのか。 イギリスの法廷で、それではこの船そのものが人だ。 としました。ところで船は実体的に人ではありませんね。 これは法律的、法的な擬制です。 分かりますか?これが?船を人にして、この船を直接的に、この船を告訴するようにしました。 法で。 そして、その法的擬制はイギリスの貿易法に今でも含まれています。
人々は知りません。人々は無知なので、どのように神様が主を持ってすべての人たちの罪を載せて、主に罰を与えて、罪を犯した人たちを解放できるように。(して下さったのかを人々は知りません)それは話にならない事だと考えますが、法を理解すれば、法的擬制を理解すれば、その内容が可能です。 人間法にも可能です。 これが。分かりますか?これが?法的擬制を理解すれば(分かります)。
神性法律学ではさっき説明したように神様が法的な擬制を使用されて、キリストは罪がないにもかかわらず、私たちの罪をキリストが犯したものとみなし、その内容として私たちを法的に解放させる判決を下すことができるのです。 法的擬制。
ですからキリストは我々の罪を許してくれるだけなく、我々の罰まで全て受けたと言うのです。 罰まで。 お父様も私たちと先祖たちの罰まで全て受けられたと言うことです。 理解しますね。 そして、法的に主は罪人になって、罪がなくても罪人になって、罰を支払うことになりました。 理解できますね。 もう?
代理責任。法学でも代理責任と言うものもあります。様々な、数千個の事件が多いでしょ。 例えば、アレンとワイトヘッド(Alan vs Whitehead)、シェリスとデルチン(Sheris vs Derutzin)など二つの例です。 例。

我々の有罪、我々は罪を作ったから私たちは有罪ですね。 無罪ではなく有罪です。それが無くなるのではないのです。 私たちの有罪はキリストに、神様が法的擬制として移して下さるのです。 ところで移す時、私達から取って、イエス様に付けるのではなく、我々は罪があり、その有罪をコピーして、そのコピーした有罪をイエス様に付けるのです。 分かりますか。 複写、コピーされた有罪。判決。でしょ?
その内容として、イエス様は罰を支払ったのですが、私たちは実は私たちの罪がなくなったのではありません。 私たちはまだ犯罪を作ったということ(立場)です。 ところで罰は、イエス様は罰を消化するのです。 罰を。
1:55:14
ですから私たちはその事実を知っているため、信仰の道でこの内容ついて考えた時、私達の神様に対する知識、その恩恵に対する知識、その恩恵に対する理解が深まれば深まるほど、あー、イエス様が私のような罪人ためにどれほど多くの苦労と犠牲と苦痛を受けなければならないのかを続けて理解することができます。 深く、深く。深く、より深く。
私たちが完全に無罪になったのではありません。 神様の法廷で私達の有罪をコピーして、イエス様に有罪のマークを着させて、イエス様或いは主に罰を与えました。そして、判決は私たちが解放されうるというのです。
その内容を知っている人として、・・・ですからアメイジング・グレイス(amazing grace)に出てくるじゃないですか。 私のような罪人を生かして下さった・・・でしょ? 私のような罪人。イエス様は私の罪を無くしたのに。 許してくださる? 許しましたが、それでも私は罪人であることを知ってるじゃないですか。 ですから私のような罪人…生かして・・・OKそうでしょ? その歌を歌う人が今や罰を受けない人になりましたね。 解放された人じゃないですか。 それでも自分で自分が罪人だということをまだ知っています。 イエス様に罪がなくても主がその罪を食べたことを知っています。 ですからその恩恵の前に感謝、称賛、愛を捧げます。 理解できますね。 ですから賞賛がそこから出て来ます。 そこから。 そこでそこから湧き出ます。 称賛が。
アレンvsワイアットヘッド(Alan vs Whitehead)のような場合にはカフェ、イギリスにあるカフェ、これは17世紀18世紀、カフェに売春婦が集まりました。 イギリス法を違反しました。売春婦が集まるので。 ところでそこの店長が許可したそうです。 売春婦が集まることができるように。店長がその売春婦を集まらせて、売春婦が男達と寝ることを許可しました。 ところでどうなりましたか? 判決はその主人。主人を告訴しました。主人はその罪を作ったのではないのですが、その問題を作らなかったんですが、自分の職員が作ったのですが、自分(オーナー)が訴えられました。分かりますか? これは何ですか? 代理責任。代理責任。代理責任。
また、デルチンvsシェリスは(Derutzin  vs Sheris)、バー、飲み屋で自分の職員が、社員が、政府警察に酒を売ってイギリスの法を破りました。 そして、誰が告訴を受けたの? その職員ではなく、その飲み屋の主人。それは自分がその罪を作らなかったが、自分が罰を受けるようになるのです。 イエス様のように。自分の主も再臨主も、自分がその多くの罪を犯したのではないのに告訴されるのです。分かりますね?
これは人々が、これを話にならない、どのようにしてイエス様が別人の罪を償って…(できるのか?)法において、法で非常に可能な内容です。 罪は犯罪だということが分からないから、法廷を考えませんね。 でも法廷でこのような内容が非常に可能です。
キリスト教神学と蕩減に関する神学がとんでもない内容だと考えたが、そうではないでしょ。 実は非常に無知な人が理解できないのであって、知っている人は法廷で100%可能な内容です。
さあ天聖経788ページを一緒に読んでみましょう。
 皆さんは、新しい血統を受け継がなければなりません。受け継ぐために、メシヤが父として来てサタン世界に勝ったという、サタンが干渉できない超世界的な基盤で、エバに侍り蕩減復帰しなければなりません。そして、夫婦の因縁を中心とした、家庭を中心とした息子、娘を立てて、横的に接ぎ木をすることが起こらなければなりません。それで、統一教会では祝福をしてあげるのです。統一教会は違います。
統一教会は、血統がどこから始まったのでしょうか。神様から始まったというのです。それゆえに、サタン世界においていくら反対してみても、反対したほうが損害賠償を支払うようになるのです。(169-37,1987.10.4)
アジュ、アジュ、アジュ

神様の遺産と天一国の遺産を受け継ぐ天一国国民として、主と再臨主が蕩減の道をさらに理解して、もっと深く理解することができ、キリストの中にある知識がさらに深くなればなるほど、もっと多い愛と讃揚と栄光を捧げることができる私たちになりましょう。アジュ、アジュ、アジュ。
では、賛美される方は出てきて、そういう心情で神様にすべての光栄を捧げましょう。アジュ。
王妃様
食口の皆さん、こんにちは。賛美礼拝に参加されましたことを歓迎いたします。
1週間どの様に過ごされたのか分かりませんが、私達が人生の中で苦痛の中にあっても、信仰の嘲弄(あざけり)を受けるとき、私が越えて勝つことが出来れば、それはまさに主がこれを世界で既に勝利されたからです。
私達の罪を代贖して下さり、蕩減の道を行って下さった再臨主をもう一度考えながら「千回呼んでも」を歌って賛美します。


この重要な神学を理解するため「真の罪の代贖の第Ⅰ編」も是非お読み下さい。


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